占いの結果をお伝えするのに古典から引用してありがたみを高めるというのは私がよく使う手の一つです。 ホロスコープやタロットカード を使った西洋系の占いの結果の結果をお伝えする会話の中で唐突に中国古典や仏教のお経のお話をさせていただくと、意外性を手に入れられます。九星占星術などを使った占いをさせていただくときに使うと、少し格式が高い感じにできますが、こちらは重たくなるのであえてイソップ物語を引用したりします。
孔子や荀子辺りを使うと、ちょっと自分を律しなさいという説教寄りになるので、中国古典の癒し系として老子や菜根譚辺りを使うことが多いです。
老子の言葉は結構、日本人の生活に根付いた言葉の語源になっていたりします。千里の道も一歩からとか、柔よく剛を制すとか、この辺りは耳にしたことがあるという方も多いのでは内でしょうか。これらの言葉は老子の言葉を語源にしています。そんな中でも老子といえばこれ。のように語られる代表フレーズは『上善若水(上善水のごとし)』ではないでしょうか。水は低いところに流れるからこそ偉大であるということを説いたフレーズとして個人的には、百谷の王の方が好きです。この二つ、どちらも穏やかな水のようにあるのが最上であるという事を説いています。水は低い場所に流れ、争わず、逆らわず、周りに合わせてその形を変えます。それゆえにかけがえのないものとして大切にされるのです。
この二つ、まずは原文の趣を味わってほしいので、そのまま引用します。
上善水のごとし原文
上善若水
上善利萬物而不争
處衆人之悪
故幾於道
居善地
心善淵
与善仁
言善信
政善治
事善能
動善時
夫唯不争
故無尤
上善水のごとし読み下し
上善は水の若し(ごとし)
上善は萬物に利して而(しかも)も争わず
衆人悪む(にくむ)ところに 處 る(おる)
故に道に幾 し(ちかし)
居るは善く地
心は善く淵(えん)
与る(くみする)は善く仁
言は善く信
政 ( 正 )は善く治
事は善く能
動くは善く時
それただ争わず
故に尤(とが)無し
百谷の王原文
江海所以能百谷王者
以其善下之
故
能為百谷王
是以聖人欲上民
必以其言下之
其欲先民
必以其身後之
是以聖人處上而民不重
處前而民不害
是以天下楽推而不厭
以其不争
故
天下莫能与之争
百谷の王読み下し
江海(こうかい)の能(よ)く百谷の王たる 所以 の者は
其の善く之に下るを以てす
故に
能く百谷の王たり
聖人是を以って民に上たらんと欲すれば
必ず言を以って之に下り
民に先んぜんと欲すれば
必ず身を以て之に後る
是を以て聖人は上に處る(おる)も而も(しかも)民は重しとせず
前に處る(おる)而も(しかも)民は害とせず
是を以て天下は推すを楽しみとして而も(しかも)厭ず(いとわず)
其の争わざるをもって
故に
天下能く之と争う事莫れ(なかれ)
上善水のごとしを語るときに水は器の形に合わせてその姿を変え、自由自在にその場に合わせて姿を変える。水のようにしなやかにたおやかに生きるべきである。というような超訳をさせていただくことも多く、 『動善時』のフレーズ辺りにそのエッセンスが込められているように思うのですが、どちらかといえば水は低いところに流れることから、無理するな、無茶するな、驕るな、飾りすぎるな、優しくしろ、謙虚であれ。それが静かな水のような心地よい生き方であると言っているように感じます。
対して同じく水は低いところに流れる。その器に注目したのが百谷の王です。江(大きな川)や海がなぜ百谷(全てのくぼみ、川やせせらぎ)の王者たりうるのか。それは、その身を最も低いところにおいているからこそ、小川やせせらぎから水を注がれ、大きなうねりとなるのである。と言っていると感じるのです。自分が先頭に立って自らの力で道を切り開くのではなく、自分自身を一番下において、周りを盛り立てていくことで、人が動き、大きな成功を導くことができるという事を説いた言葉だと思います。