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四弘誓願とベッポの言葉

四弘誓願。お坊さんであれば宗派によっては毎日唱えているなどという方も多いかと思いますが、普通に日常を過ごしているとなかなかに耳にする機会などなく。法事の際に耳にするあれぐらいの感覚の方が少々いるという類のものではないでしょうか。きっと初めて聞いたという方もいらっしゃるでしょう。

四弘誓願とは、この四つの誓いの事です。

この四つの誓いと、ミヒャエル・エンデの『モモ』の中に出てくる道路掃除夫のベッポの言葉の相性が実はよくて、それっぽくありがたい感じで占いの結果をお伝えするのにつかえるので、実践例を含めて紹介したいと思います。

ミヒャエル・エンデの『モモ』の中に出てくる道路掃除夫のベッポの言葉は、星占いで月が象徴するものを説明するときに、牡牛座の月の説明の中でも引用させていただいています。コツコツ地道にやることを推すときに引用しやすいです。

衆生無辺誓願度・煩悩無尽誓願断・法門無量誓願学・仏道無上誓願成は、向上心が大事とか慈愛の心が大事ということを否定しづらい感じで説教臭く使えるのに意外と便利です。この四つの誓願は後程詳しく説明するとして、『モモ』の中に出てくる道路掃除夫のベッポの言葉を引用します。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」またひとやすみして、かんがえこみ、それから、「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」そしてまたまた長い休みをとってから、「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」

モモ ミュヒャエル・エンデ作 大島かおり訳 
岩波書店1976年9月24日発行
1989年12月20日第41版
48ページ、49ページからの引用

このベッポのフレーズを引用するときのコツは、まずとてつもなく長い道路を掃除する道路掃除夫の話だという事をお伝えして、占う方の課題について大変なもので、途方に暮れる。逃げ出したくなるものだという気持ちに共感して寄り添う事です。まずは相手に、たいへんな偉業を達成しようとしている凄い方だ。それをきっと達成できる能力を持ち合わせている方だという事をお伝えし、能力へのリスペクトをお伝えするとさらに良いです。

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2人の兄弟か8人のいとこのためになら死ねるのか問題

まず初めに、私自身の個人的な結論としては、全体最適の為にある程度の犠牲は必要だと思いますが、できれば私が犠牲になることは避けたい。ただし、私が想像できる範囲もしくは直観的に、その犠牲に対してのリターンがその犠牲と釣り合うものであればそれを厭わない。だろう。という事を述べておいて、そんな考えをベースにして、確証バイアスがかかった判断のもとで自己犠牲の精神を発揮すると思うので、もしそんな行動を取ってみんなの役に立ったと思ったら、みんな褒めてね。という考え方だという事を述べておきます。

もしわたしが、自分や自分の身内に有利になるために、自己犠牲の精神を発揮した時に、それプラス称賛されるというインセンティブがついてくると、自己犠牲の精神を発揮しやすい環境になるので、褒める、称賛するという文化が全体最適のための(自己犠牲的な)行動を誘発しやすくするのではなかろうか。という事をふと考えたわけです。

全体最適の為に犠牲になるという事を考えるときに、J・B・S・ホールデン(John Burdon Sanderson Haldane)が溺れているものに命を投げ出すかというというに対して述べたと言われている『2人の兄弟、4人の甥もしくは8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう。』という言葉を思い出さずにはいられません。

このホールデン先生の言葉、わたしはもう二つ前提条件がそろった場合、賛成します。もし溺れているものが私の犠牲によって助かる確率が100パーセントでなおかつ、その後の生殖(繁殖)確率が犠牲を払わなかった場合のわたしと同等より大きいものであった場合、わたしは2人以上の兄弟、4人以上の甥もしくは8人以上のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう。というのが正しいかと思います。

全体最適という事を考えるときには全体とは何か?という問題があります。自己犠牲的な、一見すると個体にとっては不合理な 利他的行動も遺伝子という単位で考えると、合理的な選択であるといえる。ということを先の8人のいとこの例は指し示しているのではないでしょうか。つまり、全体をある遺伝子が存在する範囲として考えると、一見すると個体としては不合理に思える行動も遺伝子という目線で見た時には合理的であると説明できるという考え方です。

全体のために小を切り捨てるということが必要なシーンはあると思います。命が助かるのであれば足の一本ぐらいはくれてやれ。というまでの話ではなくとも、自分の有利な盤面を作り出ためにチェスのポーンには死んでもらう感覚です。キングを守るためであればビショップやルークには喜んで死んでもらいますし、時にはクイーンも差し出します。チェスをしていると時々、犠牲になっていくポーンの気持ちを考えて胸が痛くなったり、将棋を指して飛車の前にいる歩に対して『邪魔だ』と思うとき、必要悪として切り捨てられるものの気持ちを考えてしまうのですが、日々自分の清潔を保つために垢として排水管に流れていく表皮細胞や、鼻水に混じる死んでいった白血球をはじめとする免疫細胞の気持ちは特に考えたりしません。

全体というものを考えるときにチェスの盤面だったり自分自身の体(生命)を全体の単位として考える分にはまだ、利他的な行動も全体最適の為の必要な犠牲だと悩まずに理解することができるのですが、これよりも大きな単位になると、とたんに悩みが生じてしまいます。自分自身の体の細胞であれば、同じ遺伝子を持った他の細胞を生かすために死んでいく細胞は当然必要だ。と言えますし、チェスの盤面のように全体の範囲がはっきりしていればまだ目的を明確に持てるのですが、同じ遺伝子を持っている(かもしれない)他を生かすための行動であったり、全体がよく分からない範囲の世界の話となると、悩みが生じてしまうのです。

ここで全体というものを個体という考えではなく、同一な遺伝子という考え方をすると、生物の行動について結構うまく説明できる。という考え方の基礎だと思います。ただし一つ一つの行動について、計算して行動に移しているわけではなくて、確証バイアスが働いた状態のような行動基準で動くことで判断と処理速度を上げているという事があって、それが有用な行動基準だった場合か、運が良かった場合に生存や増殖確率が上がるという事だと思うのです。

先程のホールディングス先生の考え方でいけば、ある確率nで他人にも存在する遺伝子Aを考えた時に、自分の命を差し出すことで自分と同程度に次の世代を残す可能性があるものをM人助けることはMn>1となるM以上で優位であると言える。という事は理解できてもなかなか、納得して、受け入れて、散っていけるものではないと思うのです。さらに恐ろしいことに、自分自身が別段散っていかなくても良い解決策があるかもしれません。瞬時にその優位性を判断して決断して行動しなければならないとなると、フレーム問題にぶつかったAIよろしくフリーズして、匙を投げてしまうより他に方法がないという気持ちになります。

という事できっと、いざ行動を起こすとなると躊躇なく行動するためにはそれが確証バイアスであったとしても、正しい行動だと思えるという事が必要だという結論になるのです。

蛇足的に、ホールディングス先生の8人のいとこの計算をしてみましょう。

自分が持っている確率nで任意の人間に ある遺伝子Aを考えた時にまず自分が生き残った場合に子供(次の世代)の数の期待値をP0とします。まずは両親を考えた時に遺伝子Aは少なくともどちらかの親に存在します。という事で遺伝子Aが例えば父親に存在する確率は(1+n)/2で表現できます。母親の方に存在する確率も(1+n)/2です。これにわたしの代わりに父親が生き残ることで残せる子孫の数の期待値P1と考えると、 遺伝子Aにとっては、 (1+n)P1/2>P0だった場合私が生き残る事よりも父親が生き残る方が優位性が高いです。 nがどれほど小さかったとしてもP1がP0の2倍以上であれば父親を助けた方が得です。しかし父親よりは私は若いという事で 一応 、P0>P1であると思われるので残念ながら 、父親一人を助ける事には優位性はありません。ここで母親が生き残ることによる期待値をP2として考えると両親を助ける場合 (1+n)P1/2+ (1+n)P2/2 >P0だった場合、両親のために自分が犠牲になる価値があると言えるので(P1+P2)がP0の2倍以上だった場合に優位性があります。ここでも両親よりも私は若いという事でP0>P1と P0>P2であると思うので (P1+P2)がP0の2倍になることはなさそうです。ごめんなさい。わたしは両親のために命を投げ出すことはできません。

※ 最近自分の子供を持つことを諦めているので、その感覚が揺らいでいることは公然の秘密です。

同じ遺伝子Aが自分の兄弟にいる確率はどうでしょうか?一方の親に遺伝子Aが存在する確率は (1+n)/2 でした。これが自分以外の兄弟に引き継がれる確率は
((1+n)/2)/2
で表現されます。もう一方の親についても同じなので、これを二倍して結局、両親が同じ自分の兄弟に遺伝子Aが存在する確率は
(1+n)/2
になります。

という事で自分の兄弟が 生き残ることで残せる子孫の数の期待値P1と考えると、 遺伝子Aにとっては、 (1+n)P1/2>P0 になったときに自分よりも兄弟が生き残った方が優位性が高いという事になります。という事で、自分よりも優秀で自分の2倍以上に子孫を残す可能性がある兄弟のためであれば兄弟が生き残った方が良いという事になります。

N人の兄弟を助ける場合はどうでしょうか?それぞれの兄弟が子孫を残す確率をP1,P2,P2,P3….PNにすると(P1+P2+P3…PN)/2+(P1+P2+P3…PN)n/2>P0だった場合に優位性があります。兄弟はたぶん自分とほぼ同世代という事で、子孫を残す期待値はほぼ同じと考えると、二人以上の兄弟を助けるために自分が死ぬという事には明らかな優位性があります。

では甥の場合は?甥は自分の兄弟の子供ですから、兄弟に遺伝子Aが存在する確率は自分の兄弟由来であるものが((1+n)/2)/2ですし、兄弟のパートナー由来であるものの確率がn/2ですから((1+n)/2)/2+n/2という事で、甥に遺伝子Aが存在する確率は、
(1+3n)/4
になります。それぞれの甥が子孫を残す確率をP1,P2,P2,P3….PNにすると
(P1+P2+P3…PN)/4+3(P1+P2+P3…PN)n/4>P0だった場合に優位性があります。多分甥はわたしよりも若いので、今後甥が子孫を残す期待値はわたしのそれよりも高いと考えると、P1+P2+P3+P4>4(P0)より大きそうですから、少なくとも4人の甥のために命を差し出すことは価値のある行動に思えます。

いとこはどうでしょう?いとこは自分の親の兄弟の子供ですから親の兄弟に遺伝子Aが存在する確率は((1+n)/2)((1+n)/2)です。両親の兄弟に遺伝子Aが存在する確率はnなので、いとこに遺伝子Aが存在する確率は((1+n)/2)((1+n)/2)/2+n/2です。ということで
(1+6n+n*n)/8
になります。いとこは多分、私と同世代か同世代に近いと考えられますからこの場合も8人のいとこのために命をなげうつ価値はありそうです。

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イソップ物語 酸っぱい葡萄

占いをしたときに、古典からの引用を交えてお話させていただくというのは私が良く使うテクニックの一つですが、比較的多く引用しているお話の一つがイソップ物語です。イソップ物語の中でも『酸っぱい葡萄』と『塩を運ぶロバ』が比較的お気に入りなようで、引用頻度が比較的高いです。『北風と太陽』や『ウサギとカメ』も比較的多い気がしますが、酸っぱい葡萄はかなり使い勝手が良いので利用頻度が高いです。

The Fox and the Grapes.
A famished Fox saw some clusters of ripe black grapes hanging from a trellised vine.
She resorted to all her tricks to get at them, but wearied herself in vain, for she could not reach them.
At last she turned away, beguiling herself of her disappointment, and saying: “The Grapes are sour, and not ripe as I thought.”
Revile not things beyond your reach.

プロジェクト・グーテンベルクからの引用です

脚色を加えて翻訳させていただきます。

酸っぱい葡萄(原題は 狐と葡萄です)

ある日おなかをすかせた狐が歩いていました。
お腹すいたな。喉が渇いたな。暑いな。などと考えながら、とぼとぼと彼女が歩いていると、木陰がありました。
木陰で少し休んでいると、甘い香りが漂ってきます。ふと彼女が上を見上げるとそこには、たわわに実った葡萄が実っていました。
葡萄は木漏れ日をうけてキラキラと輝いています。
(原文では、おなかをすかせた狐が熟したブドウの房がぶら下がっているのを見つけたと書かれているのを、かなり脚色しています。)


あの葡萄が食べたい、そう思った狐は大きく伸びあがって葡萄をもぎ取ろうとします。しかし葡萄は彼女の背丈よりも高い場所にぶら下がっていて、葡萄に手は届きません。
少し跳びはねてみましたが、やっぱり届きません。
彼女は何度も何度も彼女は跳びはねて、何とかして葡萄をもぎ取ろうとします。
しかしやっぱり彼女は葡萄に手が届きません。
彼女はすっかりくたびれてしまいました。
(原文では、いろいろ手を尽くして葡萄を手にしようとしましたが、疲れただけで、結局手が届きませんでしたと書いてあるのを、かなり脚色しています。)


結局彼女は諦めて、自分自身を慰めるためにこう呟きます。
『あの葡萄は酸っぱいに決まっている、思ったほど熟していないに違いない。』
手に入らなかったものの事を考えても仕方がない。

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酸っぱい葡萄と甘いレモンの心理効果

私たちはえてして、手に入らなかったものを諦めるために、こんな行動を取りがちです。自分自身の至らなさは棚に上げて、どうせあの葡萄は酸っぱいと言って自分を慰めるのです。反対に自分自身が手に入れているもので納得するために、甘いレモンという事も行います。わたしは占いの結果をお伝えするために多くのケースで、これをセットで使います。

例えば就職。希望の会社に入れなかった時などに、もしあの会社に入っていたらきっと、過酷な労働環境でつらい思いをしていたに違いない。確かに給料は良いかもしれないけれど、残業や休日出勤が多いに違いないし、従業員同士の競争で疲弊するに違いない。今の会社はまあ、最高というわけではないけれど、生きていくのに必要な給料は手に入るし、それなりに自分の時間も取れている。などという事を考えたりします。これ、就職できなかった会社への思いが酸っぱい葡萄です。今の会社への思いは甘いレモンですね。

或いは恋愛。好きだったあの人とは付き合えなかったけれど、きっとあの人と付き合っていたら浮気の心配や、自分とは不釣り合いだという劣等感に苛まれることになっていたに違いない。今の相手はまあ、最高というわけではないけれど、いろいろと気遣いをしてくれて落ち着く相手だからよかった。とか、付き合っていないお陰で、自分一人の自由になる時間が持てている。もし付き合っていたらこんな自由な時間はなかったから、付き合えなくてよかった。などと考えたりします。

酸っぱい葡萄の心理や甘いレモンの心理は決して悪いものではありません。自分自身を納得させるための手っ取り早い方法としては『あり』だと思います。しかし、酸っぱい葡萄で相手の事を貶めたり、甘いレモンで現状に甘んじて行動しない言い訳にしてしまうのは『なし』です。甘いレモンは時に、足るを知るという意味で現状に留まる理由にする事も有効な処方箋かと思いますが、酸っぱい葡萄だと思って自分を慰めたなら、それあるいは、それを欲しかった自分の事は、早めに忘れた方が良いです。 Revile not things beyond your reach. です。

自分の精神状態を速やかに安定させるためには有効な方法ですが、私たちはしばしば、酸っぱい葡萄の情報を収集しようとしてしまいます。例えばあの会社は離職率が高いなどという情報を見つけて、ああ良かった。もし私があの会社に入っていたとしたら、今頃きっと辞めていて路頭に迷っていたに違いないなどと考えたりします。

あんなに欲しかったもののネガティブな情報を集めてしまう状態。これはマイナスの確証バイアスがかかってるという事になります。かつてはそれを手に入れた後の幸せを夢想して、プラスの確証バイアスをかけて情報収集していたはずなのですが、その思いが強ければ強いほど執拗にマイナス面を探してしまうのです。

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死んだ子の歳を数えない

相場の世界でよく聞く格言の一つに『死んだ子の歳を数えるな』という格言があります『利食い千人力』とか『見切り千両』とかいう格言とセットで言われることが多いかと思います。例えば買っていた株を売って利益を確定した後で、その時よりも株価が上がっていくのを見て、もう少し持っておけばもっと利益があったのにとか、買っていた株が下がって損切した後で株価が盛り返してきたのを見て、もう少し我慢していれば等と思うときに、利食い千人力だから利益が出てよかったと思いなさい。死んだ子の歳を数えてもしょうがない。とか、見切り千両と言って、あのまま持っていたとしても必ず上がるという確信が持てていたわけではない。傷を広げないという意味では正解だった。死んだ子の歳を数えてもしょうがないなどと言って使います。

特に損切した後はむしろ、損切した値段よりも下がってくれた方が精神衛生上宜しくて、ついついネガティブな情報を収集しがちです。損切した値段よりも回復しているのを見てしまうと発狂しそうになって、冷静な判断ができなくなったりします。そんなことをさけるために、死んだ子の歳は数えるな。休むも相場、布団かぶって寝ておけなどとって使うのです。

あの葡萄は酸っぱいさと言って諦めた狐に向かって、食べてみたけど葡萄は酸っぱくて、おいしくなかったから転げまわったとか、おなかを壊したとかいうネズミがいたら狐は多分、自分がお腹を空かせていたことを忘れて、そのネズミを心の友と呼ぶでしょう。
反対に、葡萄めっちゃくちゃジューシーでおいしかったよ。食べられなくて残念だったね。などというネズミがいたら多分、狐は何がなんでもそのネズミをできる限り残酷な方法で血祭りにあげるでしょう。

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占いでの使い方

酸っぱい葡萄のお話をさせていただくときには、ピンポイントでその物事の良し悪しを指し示すというよりは、どんな行動をしていたとしても全ての後悔がない状態というのはあり得ない。その時々でベターな選択があるだけで、ベストな選択はない。という使い方をすることが多いです。
例えば、星のカードの逆位置と女帝のカードの逆位置、死のカードの逆位置なんてものが出た時には引用のチャンスです。
星のカードは目指すべき目標や希望といったものを表しています。このカードの逆という事はそれつまり希望の星が雲にかかってしまって見えなくなっているようなイメージです。女帝のカードの逆位置は嫉妬心とか、固執する。妬みや嫉みを象徴するカードです。ちょっと物事に固執してしまっている感じがして、なんとなく後悔のようなものがあるのではないでしょうか。ちょっと高望みしすぎて手に入らなかったり、あるいは充分な期待通りの結果が得られなかったりしたという事はありませんか?などと言って一呼吸置きます。
結果を手に入れられていない不満があれば、何らかの後悔が生まれます。結果を手にしていたとしても、もっとうまくやれたのではないかという後悔が生まれます。後悔のない人は多分いませんし、いたとしてもそんな人は占いを求めていません。 バーナム効果を狙った鑑定です。
そして、イソップ物語の中に酸っぱい葡萄というお話がありまして。と言いながらお話を引用します。このように私たちはしばしば、自分の力が及ばず手に入れられなかった果実を蔑むことで自分の留飲を下げて心の安定を図ったりします。あるいは、酸っぱい葡萄の反対で甘いレモンという心の動きもあります。これは自分自身の手に入れているものを価値があるように思いこむことで自分を正当化するための心の動きです。などというコメントを入れさせていただきます。
これも多分、思いあたらない方の方が少ないかと思います。そして往々にして自省されたりするので、ここで救いを入れます。
さて、酸っぱい葡萄にしても甘いレモンにしてもそれ自体は心の動きとして悪いものではありません。諦めたり、満足したりするための心の動きとしては自然なものですし、むしろうまく使うことで切替がスムーズにいくものだったりするのでうまく利用すればよいと思います。要は切替の為にこの心の動きを利用してやれば良いのです。手に入れられなかったものに固執しすぎないという事が肝要になります。
ところでここに、死のカードの逆位置が出ていることに注目してほしいのです。死のカードの逆位置は再生とか出発を意味するカードです。正位置ですと死のカードは終焉というか、停滞をあらわすのですが、逆位置ですと冬が終わり春が来る一つ手前の状態。まだはっきりと芽は出していないけれど、新たな胎動が土の中で始まっている。そんな状態です。
過去にとらわれることなく、新たに行動を起こすことで果実を手に入れることができる。もちろん新たな行動というのは全く別の道という読み方もできますが、どちらかといえばこのカードは今まで自分がいた場所に落ち葉が落ち、土に十分な栄養が蓄えられていて、そこから再出発するような印象が強いです。突拍子もないことを始めるというよりはむしろ、自分自身が今まで蓄えられた力を少し目線を変えて再出発することで成功する。そんな予感をカードは伝えてくれているのではないでしょうか。などとコメントさせていただくとおさまりが良い感じです。もちろん死のカードのコメントでも、バーナム効果を狙っています。

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菜根譚の菜根譚らしい言葉

老子の教え水は低きに流れるでも述べましたが、私は西洋占星術やタロットカードのメッセージを伝えるときに『あえて』中国古典を引用したりします。自分に厳しくという感じの孔子や荀子は避けて、癒し系の老子や菜根譚を引用することが多いのですが、菜根譚ってなに?のような感じで、今一つ知名度が低いので紹介したいと思います。

菜根譚は明末期の隠士洪自誠が残した書物です。老子の思想に近いものを持ちながら、道教と仏教的な思想がミックスされた思想が根底に流れているように思います。ただ、菜根譚の由来は朱子という儒学者が記した小学の中にある『菜根は硬くて筋が多いけれど、これを噛みしめてこそものの真の味わいがわかるよ』的な言葉を元にしているので、道教と仏教的な思想の他に根底には儒教的な思想が流れており、孔子の思想が根底に流れているのは間違いありません。日本の禅宗では結構読まれているようで、私が初めてこの本に出合ったのもどこかのお寺でだったと思います。

という事で、菜根譚そのままの言葉をご紹介します。

藜口莧腸者、多氷清玉潔、袞衣玉食者、甘婢膝奴顔。蓋志以澹泊明、而節従肥甘喪也。

質素な生活を送り、清廉潔白に生きることで人間性が磨かれ成功するが、豪奢な生活を送っていると寄ってくるものはおこぼれを拾おうとあなたに媚びへつらうものばかりで、そんなものばかりを相手にしているうちに勘違いし、人間性が損なわれ、やがて身を持ち崩すこととなる。というような戒めとして引用すると大変使い勝手が良いです。

例えば タロットカードで エンペラー(皇帝)の正位置、 チャリオット(戦車)の逆位置とテンパランス(節制)の正位置なんてものが出たりすると引用のチャンスです。 あなたの努力が報われて人望が集まりリーダーシップが発揮できますが、ついつい調子に乗って火傷してしまいそうな暗示がカードに出ていますね。
などと言いながらひと呼吸おきます。
ここで、この テンパランス のカードに注目してほしいのです。実はこのカードには節制という意味があります。中国の古典の中に菜根譚というものがあって、その中で、あさぎややまごぼうというものを食べて質素な生活をしている人は人間性が磨かれ成功する人が多いが、豪奢な生活を送っていると志が失われ、人間性が衰えていくということを言っています。
菜根譚の言葉を少し詳しくお話しすると、藜(あさぎ)や莧(やまごぼう)の若葉を摘んで食べるような、粗食でお腹を満たし、質素な生活を送っているものには氷や玉のような清廉で穢れのないものが多いが、龍の飾りをつけた衣装を着て飽食をしているような着飾り豪勢に過ごしているものには奴隷が自分にへつらい従うのに甘んじてしまう。おもうに、人の志気は淡白で質素な生活の中で磨かれるものであるが、贅沢な生活をして自分に媚びへつらうものの中で調子に乗っていると志を失ってしまうものである。という言葉なのですが、節制のカードはそんなことを警告しているかと思います。
一時の成功に浮かれて調子に乗っていると失敗し孤立するよ。という事をカードは暗示していると思うのです。この節制のカードのメッセージを大切にして、成功に寄ってくるものではなく、苦楽を共にしてくれるものを大切にし、自分から努力することで、このチャリオット(戦車)のカードが正位置に反転して成功と成長を成し遂げることができるかと思います。

などという使い方をします。占いの結果として伝えている事は良いことも悪いこともあるよ。一緒に頑張ってくれる仲間を大事にしましょう。という至極当然のことを言っています。
成功したと思える体験があったとすればエンペラー(皇帝)のカードが当たった。慢心が失敗を招くので注意してください。と申し上げますし、なんだか失敗したという体験があったとすれば、きっと成功体験で自分の目を曇らせてしまったことが失敗の原因です。冷静になって努力するきっかけをつかめば再起のチャンスがあります。そもそもあなたには実力があるので大丈夫です。などと申し上げます。
成功体験もあり、後悔もあるような場合は多分そのまま当たっているみたいな受け止め方をしてもらえますし、後悔を乗り越えて成功しているような場合、努力が報われたのだと自己肯定してくれたりするのでとても使いやすい感じです。

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風水の基本は清潔と空気の入れ替え

風水の基本は位置に清潔、二に清潔、三四がなくて五に清潔です。風水って基本は掃除と、毎朝新鮮な空気を部屋に取り込むこと以上に効果的なことはないです。後は付け加えるなら物を増やしすぎないという事になるけど、それに気づいて推奨すると、運気が良くなる壺とか風水グッズって相反してしまって売れないんだよなあ。売りませんけど。売ったらごめんなさい。もし売ったら、生活のアクセントとして買ってください。

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さて、金運をアップさせたければ黄色の財布が良いとか、恋愛運を向上させたければピンクだとか、仕事運を向上させたければ青がおすすめだとか、北に山、西と東にも山、東に川を望み、南が開けていて東の水が東南に流れる土地が良いとか、南に玄関、北に寝室、東南にリビング、いずれにせよ部屋の中の気(空気)の流れが澱まないように流れるのがお勧めなどと申しますが、色については、カラーセラピーの古典だと考えれば納得できますし、土地については都市防衛しやすい立地だとか、ライフラインを確保しやすい土地とはどういう土地なのかを考えれば納得がいきます。部屋の配置は、来訪者をもてなし、快適に過ごしつつ、プライベートを確保する間取りを考えれば自然とそうなりませんか?というものです。

いずれにせよ、すべてのおすすめの頭には清潔であることとか、整然としているという事が求められます。

黄色の『綺麗な』財布を持つからお金を触るときに楽しい気分で冷静にお金を回せますし、ピンクをさし色にして『清潔な』格好をするから華やかな気持ちで人に接するので対人運が好転します。『清潔でフォーマルな』装いの中に青をさし色にすることで、知的で冷静な印象を与えます。間取りにしても、お客様に快適に応対するには『清潔で』日が差す玄関でお客様をおもてなしして、『清潔で』温かなリビングで家族が過ごし、『清潔で』静かな寝室で眠るのが快適ですよねという事です。

土地にしても山と川で守りつつ、川と道で物流網が確保されて、陽光を取り込み、風を適度に流し、生活用水と灌漑用水、工業用水を確保して、農地を確保し、外向きの間口を開けておくのに適した立地となるとそんな感じになるよね、街づくりという事でいえば、『きちんと区画整理された街が』そんな土地にあれば栄えるというものです。

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風水的にとか九星的にどの方向が良いとか、どんな装いが良いですかなどと問われることもあって、仕方がないので東南と北が吉包囲で東西はお勧めしないとか、東北が吉方位で他はお勧めしないとか適当なこと(一応、根拠のようなものはあります)を申し上げてみたりしますが、結局のところそれだけで決まるものではないですし、自分次第な部分があって、どんな気分で生活したいのかという事が大切です。薬も過ぎれば毒となると申しまして、恋愛運を向上させたいからといって全身ショッキングピンクで固めてしまうのはお勧めしないように、そればかりを気にしすぎるというのもいかがなものかという事です。

それらの風水的なことや九星的なことを意識することで、迷ったときに決断が早くなること、悩んでいる無駄が省けたり、悩んでいる間に機を逃したりしないという効果が最も大きな効果です。占い師に相談している時間は、悩んでいる無駄な時間だというお話になりかねませんけど…そこは、一人で悩むよりも適当なことでも言ってくれる無害な相手がいたほうが考えがまとまりやすいというものです。

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ということで生活に風水を取り入れるのであれば、まず初めにやっていただきたいことは、掃除と余計なものを捨てること、毎朝窓を開けて新鮮な空気を部屋と自分に取り込むことが一番です。多分、運気をよくするために汚い部屋で、汚い恰好をして、澱んだ空気の中で生活しなさいという占い師はいないかと思います。

そのうえで、コーディネートやレイアウトの基本指針として風水や九星を意識すると結構快適な環境をつくることができるのではないかと思います。実は朝の新鮮な空気を部屋と自分に取り込む。ただそれだけの事で結構いろいろ変わるのでこれだけは、騙されたと思って一度、お試しいただければと思います。

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老子の教え 水は低きに流れる

占いの結果をお伝えするのに古典から引用してありがたみを高めるというのは私がよく使う手の一つです。 ホロスコープやタロットカード を使った西洋系の占いの結果の結果をお伝えする会話の中で唐突に中国古典や仏教のお経のお話をさせていただくと、意外性を手に入れられます。九星占星術などを使った占いをさせていただくときに使うと、少し格式が高い感じにできますが、こちらは重たくなるのであえてイソップ物語を引用したりします。

孔子や荀子辺りを使うと、ちょっと自分を律しなさいという説教寄りになるので、中国古典の癒し系として老子や菜根譚辺りを使うことが多いです。

老子の言葉は結構、日本人の生活に根付いた言葉の語源になっていたりします。千里の道も一歩からとか、柔よく剛を制すとか、この辺りは耳にしたことがあるという方も多いのでは内でしょうか。これらの言葉は老子の言葉を語源にしています。そんな中でも老子といえばこれ。のように語られる代表フレーズは『上善若水(上善水のごとし)』ではないでしょうか。水は低いところに流れるからこそ偉大であるということを説いたフレーズとして個人的には、百谷の王の方が好きです。この二つ、どちらも穏やかな水のようにあるのが最上であるという事を説いています。水は低い場所に流れ、争わず、逆らわず、周りに合わせてその形を変えます。それゆえにかけがえのないものとして大切にされるのです。

この二つ、まずは原文の趣を味わってほしいので、そのまま引用します。

 

上善水のごとし原文

上善若水
上善利萬物而不争
處衆人之悪
故幾於道
居善地
心善淵
与善仁
言善信
政善治
事善能
動善時
夫唯不争
故無尤

上善水のごとし読み下し

上善は水の若し(ごとし)
上善は萬物に利して而(しかも)も争わず
衆人悪む(にくむ)ところに 處 る(おる)
故に道に幾 し(ちかし)
居るは善く地
心は善く淵(えん)
与る(くみする)は善く仁
言は善く信
政 ( 正 )は善く治
事は善く能
動くは善く時
それただ争わず
故に尤(とが)無し

 

百谷の王原文

江海所以能百谷王者
以其善下之

能為百谷王
是以聖人欲上民
必以其言下之
其欲先民
必以其身後之
是以聖人處上而民不重
處前而民不害
是以天下楽推而不厭
以其不争

天下莫能与之争

百谷の王読み下し

江海(こうかい)の能(よ)く百谷の王たる 所以 の者は
其の善く之に下るを以てす
故に
能く百谷の王たり
聖人是を以って民に上たらんと欲すれば
必ず言を以って之に下り
民に先んぜんと欲すれば
必ず身を以て之に後る
是を以て聖人は上に處る(おる)も而も(しかも)民は重しとせず
前に處る(おる)而も(しかも)民は害とせず
是を以て天下は推すを楽しみとして而も(しかも)厭ず(いとわず)
其の争わざるをもって
故に
天下能く之と争う事莫れ(なかれ)

 

上善水のごとしを語るときに水は器の形に合わせてその姿を変え、自由自在にその場に合わせて姿を変える。水のようにしなやかにたおやかに生きるべきである。というような超訳をさせていただくことも多く、 『動善時』のフレーズ辺りにそのエッセンスが込められているように思うのですが、どちらかといえば水は低いところに流れることから、無理するな、無茶するな、驕るな、飾りすぎるな、優しくしろ、謙虚であれ。それが静かな水のような心地よい生き方であると言っているように感じます。

対して同じく水は低いところに流れる。その器に注目したのが百谷の王です。江(大きな川)や海がなぜ百谷(全てのくぼみ、川やせせらぎ)の王者たりうるのか。それは、その身を最も低いところにおいているからこそ、小川やせせらぎから水を注がれ、大きなうねりとなるのである。と言っていると感じるのです。自分が先頭に立って自らの力で道を切り開くのではなく、自分自身を一番下において、周りを盛り立てていくことで、人が動き、大きな成功を導くことができるという事を説いた言葉だと思います。