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2人の兄弟か8人のいとこのためになら死ねるのか問題

まず初めに、私自身の個人的な結論としては、全体最適の為にある程度の犠牲は必要だと思いますが、できれば私が犠牲になることは避けたい。ただし、私が想像できる範囲もしくは直観的に、その犠牲に対してのリターンがその犠牲と釣り合うものであればそれを厭わない。だろう。という事を述べておいて、そんな考えをベースにして、確証バイアスがかかった判断のもとで自己犠牲の精神を発揮すると思うので、もしそんな行動を取ってみんなの役に立ったと思ったら、みんな褒めてね。という考え方だという事を述べておきます。

もしわたしが、自分や自分の身内に有利になるために、自己犠牲の精神を発揮した時に、それプラス称賛されるというインセンティブがついてくると、自己犠牲の精神を発揮しやすい環境になるので、褒める、称賛するという文化が全体最適のための(自己犠牲的な)行動を誘発しやすくするのではなかろうか。という事をふと考えたわけです。

全体最適の為に犠牲になるという事を考えるときに、J・B・S・ホールデン(John Burdon Sanderson Haldane)が溺れているものに命を投げ出すかというというに対して述べたと言われている『2人の兄弟、4人の甥もしくは8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう。』という言葉を思い出さずにはいられません。

このホールデン先生の言葉、わたしはもう二つ前提条件がそろった場合、賛成します。もし溺れているものが私の犠牲によって助かる確率が100パーセントでなおかつ、その後の生殖(繁殖)確率が犠牲を払わなかった場合のわたしと同等より大きいものであった場合、わたしは2人以上の兄弟、4人以上の甥もしくは8人以上のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう。というのが正しいかと思います。

全体最適という事を考えるときには全体とは何か?という問題があります。自己犠牲的な、一見すると個体にとっては不合理な 利他的行動も遺伝子という単位で考えると、合理的な選択であるといえる。ということを先の8人のいとこの例は指し示しているのではないでしょうか。つまり、全体をある遺伝子が存在する範囲として考えると、一見すると個体としては不合理に思える行動も遺伝子という目線で見た時には合理的であると説明できるという考え方です。

全体のために小を切り捨てるということが必要なシーンはあると思います。命が助かるのであれば足の一本ぐらいはくれてやれ。というまでの話ではなくとも、自分の有利な盤面を作り出ためにチェスのポーンには死んでもらう感覚です。キングを守るためであればビショップやルークには喜んで死んでもらいますし、時にはクイーンも差し出します。チェスをしていると時々、犠牲になっていくポーンの気持ちを考えて胸が痛くなったり、将棋を指して飛車の前にいる歩に対して『邪魔だ』と思うとき、必要悪として切り捨てられるものの気持ちを考えてしまうのですが、日々自分の清潔を保つために垢として排水管に流れていく表皮細胞や、鼻水に混じる死んでいった白血球をはじめとする免疫細胞の気持ちは特に考えたりしません。

全体というものを考えるときにチェスの盤面だったり自分自身の体(生命)を全体の単位として考える分にはまだ、利他的な行動も全体最適の為の必要な犠牲だと悩まずに理解することができるのですが、これよりも大きな単位になると、とたんに悩みが生じてしまいます。自分自身の体の細胞であれば、同じ遺伝子を持った他の細胞を生かすために死んでいく細胞は当然必要だ。と言えますし、チェスの盤面のように全体の範囲がはっきりしていればまだ目的を明確に持てるのですが、同じ遺伝子を持っている(かもしれない)他を生かすための行動であったり、全体がよく分からない範囲の世界の話となると、悩みが生じてしまうのです。

ここで全体というものを個体という考えではなく、同一な遺伝子という考え方をすると、生物の行動について結構うまく説明できる。という考え方の基礎だと思います。ただし一つ一つの行動について、計算して行動に移しているわけではなくて、確証バイアスが働いた状態のような行動基準で動くことで判断と処理速度を上げているという事があって、それが有用な行動基準だった場合か、運が良かった場合に生存や増殖確率が上がるという事だと思うのです。

先程のホールディングス先生の考え方でいけば、ある確率nで他人にも存在する遺伝子Aを考えた時に、自分の命を差し出すことで自分と同程度に次の世代を残す可能性があるものをM人助けることはMn>1となるM以上で優位であると言える。という事は理解できてもなかなか、納得して、受け入れて、散っていけるものではないと思うのです。さらに恐ろしいことに、自分自身が別段散っていかなくても良い解決策があるかもしれません。瞬時にその優位性を判断して決断して行動しなければならないとなると、フレーム問題にぶつかったAIよろしくフリーズして、匙を投げてしまうより他に方法がないという気持ちになります。

という事できっと、いざ行動を起こすとなると躊躇なく行動するためにはそれが確証バイアスであったとしても、正しい行動だと思えるという事が必要だという結論になるのです。

蛇足的に、ホールディングス先生の8人のいとこの計算をしてみましょう。

自分が持っている確率nで任意の人間に ある遺伝子Aを考えた時にまず自分が生き残った場合に子供(次の世代)の数の期待値をP0とします。まずは両親を考えた時に遺伝子Aは少なくともどちらかの親に存在します。という事で遺伝子Aが例えば父親に存在する確率は(1+n)/2で表現できます。母親の方に存在する確率も(1+n)/2です。これにわたしの代わりに父親が生き残ることで残せる子孫の数の期待値P1と考えると、 遺伝子Aにとっては、 (1+n)P1/2>P0だった場合私が生き残る事よりも父親が生き残る方が優位性が高いです。 nがどれほど小さかったとしてもP1がP0の2倍以上であれば父親を助けた方が得です。しかし父親よりは私は若いという事で 一応 、P0>P1であると思われるので残念ながら 、父親一人を助ける事には優位性はありません。ここで母親が生き残ることによる期待値をP2として考えると両親を助ける場合 (1+n)P1/2+ (1+n)P2/2 >P0だった場合、両親のために自分が犠牲になる価値があると言えるので(P1+P2)がP0の2倍以上だった場合に優位性があります。ここでも両親よりも私は若いという事でP0>P1と P0>P2であると思うので (P1+P2)がP0の2倍になることはなさそうです。ごめんなさい。わたしは両親のために命を投げ出すことはできません。

※ 最近自分の子供を持つことを諦めているので、その感覚が揺らいでいることは公然の秘密です。

同じ遺伝子Aが自分の兄弟にいる確率はどうでしょうか?一方の親に遺伝子Aが存在する確率は (1+n)/2 でした。これが自分以外の兄弟に引き継がれる確率は
((1+n)/2)/2
で表現されます。もう一方の親についても同じなので、これを二倍して結局、両親が同じ自分の兄弟に遺伝子Aが存在する確率は
(1+n)/2
になります。

という事で自分の兄弟が 生き残ることで残せる子孫の数の期待値P1と考えると、 遺伝子Aにとっては、 (1+n)P1/2>P0 になったときに自分よりも兄弟が生き残った方が優位性が高いという事になります。という事で、自分よりも優秀で自分の2倍以上に子孫を残す可能性がある兄弟のためであれば兄弟が生き残った方が良いという事になります。

N人の兄弟を助ける場合はどうでしょうか?それぞれの兄弟が子孫を残す確率をP1,P2,P2,P3….PNにすると(P1+P2+P3…PN)/2+(P1+P2+P3…PN)n/2>P0だった場合に優位性があります。兄弟はたぶん自分とほぼ同世代という事で、子孫を残す期待値はほぼ同じと考えると、二人以上の兄弟を助けるために自分が死ぬという事には明らかな優位性があります。

では甥の場合は?甥は自分の兄弟の子供ですから、兄弟に遺伝子Aが存在する確率は自分の兄弟由来であるものが((1+n)/2)/2ですし、兄弟のパートナー由来であるものの確率がn/2ですから((1+n)/2)/2+n/2という事で、甥に遺伝子Aが存在する確率は、
(1+3n)/4
になります。それぞれの甥が子孫を残す確率をP1,P2,P2,P3….PNにすると
(P1+P2+P3…PN)/4+3(P1+P2+P3…PN)n/4>P0だった場合に優位性があります。多分甥はわたしよりも若いので、今後甥が子孫を残す期待値はわたしのそれよりも高いと考えると、P1+P2+P3+P4>4(P0)より大きそうですから、少なくとも4人の甥のために命を差し出すことは価値のある行動に思えます。

いとこはどうでしょう?いとこは自分の親の兄弟の子供ですから親の兄弟に遺伝子Aが存在する確率は((1+n)/2)((1+n)/2)です。両親の兄弟に遺伝子Aが存在する確率はnなので、いとこに遺伝子Aが存在する確率は((1+n)/2)((1+n)/2)/2+n/2です。ということで
(1+6n+n*n)/8
になります。いとこは多分、私と同世代か同世代に近いと考えられますからこの場合も8人のいとこのために命をなげうつ価値はありそうです。