‐Back In The USSR‐
The Beatles(1968-11-22)
ねえ知ってる?毎回新月の夜1時15分から少しの間だけ東京からオーロラが見えるの。もちろん今だって、たまに空を見上げるとオーロラは出てるんだけど、新月の夜、決まって1時15分からだけは、絶対にオーロラが現れるって。それだけはプログラムの深いところに決めてあって、それを壊すと全てが止まるっていうお話。
それはずいぶん昔の新月の夜のことだった。
一本の白く輝く糸がゆっくりと、地表に振り落ちる雨粒ほどの速さで空から降りてきた。あまりにすべらかな糸で、糸そのものは漆黒であるのに、星明りを受けて白くきらめきながら降りてきた。北緯18度・東経135度の位置にそれは降りてきた。一方で、もう一本の黒い糸が夜空の闇に吸い込まれていき、それは月を目指していた。
白い糸が地球にたどり着き、深い海の底度とぐろを巻き続けているというのに、黒い糸はまだ月を目指していた。次の新月の夜、黒い糸は月へとたどり着いた。そこから7日ほど後のことである。
気が付けば、バベルと呼ばれる軌道エレベーターがそこにあった。
そのバーの扉を開けたのは全くの偶然だった。土砂降りの雨を避けようとして扉を開けた。地下へと続く階段を下りたあの日のことはよく覚えている。
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ぽつりぽつりと大粒の雨が落ちてきた。
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僕は空を見上げた。雨の予報はなかったのに。
天気予報が外れるなんて珍しいこともあるものだ。
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周りを見回して雨除けを探す。
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小さな庇の下でネオンの看板がチリチリと音を立てている。
「Bar LiFe」
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どうにか雨に濡れないように僕は、小さな庇の下で肩を縮めている。
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なんだかもうやけくそで僕は、Back In The USSRを口ずさんでる。
後はめちゃくちゃ
たまりかねてドアの扉を開け、地下へ続く階段を下りていった。
階段の先には那音がいた。彼女が作ったギムレットを飲んだあの日のことはよく覚えている。
練習中だというそれは、ライムの味しかしなかった。
階段を降りた先でいきなり那音と目が合った。僕はBack In The USSRを歌うのをやめた。
「Back In The USSR!」彼女はこぶしを突き出して、僕にウインクした。
「おかえり。何飲む?」
そう言いながら彼女はカウンターの一角を指さしている。そこに座れという事だろう。僕はカウンターに座り、彼女が差し出したおしぼりで雨に濡れた顔を拭いた。
「メニューを」
「そんなのないよ。言ってくれればできるものなら作る。だってバーだから。」
「お酒、飲んだことがないんだ。」
「はじめて?」
「じゃあ、私の好きなのでいい?」
「任せる。」
彼女はBack In The USSRを口ずさみながらシェーカーを振った。キャップのふちを少し舐めて、首をかしげながらグラスにそれを注ぐ。
「なんか違う気がするけど、ギムレット。」
そう言ってグラスを差し出す。僕はそれに口をつけると、むせた。強烈なアルコールが僕の喉を焼いた。口の中がライムの香りであふれている。
「ものすごく古い歌を知ってるのね。Back In The USSRなんて、珍しい。好きなの?」
「うん、嫌いじゃない。君こそ、ビートルズなんてよく知ってるね。もう2世紀も前の歌なのに。」
「おばあちゃんが好きだったから。」
「そう。」
いつの間に這い出したのか、白い蜘蛛がグラスのふちにぴょんと飛び、ギムレットをつついて遊んでいる。
「あら、あなたの相方、白いのね。大体の子は真っ黒いのに。師匠、おいで。」
彼女が声をかけると、彼女の指の上に黒いハエトリグモがぴょこんと飛んだ。
「そういえば、おばあちゃんのクモも白かった。特別な子だよって言ってたっけ。」
彼女はそう呟いて、水を一口飲む。彼女も何かカクテルを飲んだら笑顔になるのかな。僕はそんなことを考えながら、ギムレットを飲み干した。
すると、いきなり、僕と彼女の前にレッドアイが現れた。
「あらありがとう。私に飲んで欲しいって思ってくれたのね。私もちょうど、もう少し優しいカクテルを出してあげたいって思っていたのよ。」
「乾杯しましょう。」
彼女はそう言ってグラスを僕に差し出す。
「おかえり。Back In The USSR」
「ただいま。Back In The USSR」
「師匠ってさ、他人の為にしてあげたいってことは大体かなえてくれちゃうんだけど、自分の為ってことは全然かなえてくれないんだよね。」
「いまだってさ、私があなたにうちのあれも食べて欲しいなーとか、これも飲んで欲しいなーとか思っただけでほら、こんなことになってる。」
ビーフジャーキーだとか、ブルスケッタだとかそんなものが山のように並んでいて、僕は15杯目のカクテルを飲んでいる。時々蜘蛛が僕の頭をつついて頭痛を取り去るものだから、ちっとも酔えやしない。
「ここもさぁ、あの人が私にはちっちゃいバーでお客さんと楽しく話してるのが良いなぁって思ってくれたからできたんだけど、あの人と一緒にやりたいなぁって夢は全然かなえてくれないの。」
「あの人?」
「うん。あの人。前のお店のお客さん。ちょっと、だいぶ好きだった。」
「最初はさあ、ただのお客さんだったのよ。本当にただのお客さん。なんかすっごい仕事が忙しくて、身を削ってるなあって思ったの。」
「今ってさ、生きてくだけだったら何もしなくてもこうやって、師匠たちが水とかごはんとか用意してくれるじゃん。おいしくないけど。」
彼女は小さなタブレットをつまんで口に放り込むとそれを水で飲みこんだ。
「そんな、タブレットじゃなくて、これ、食べればいいのに。」
「お客さんに出したものは食べられないわよ。」
「勝手に出てきたから、僕のっていうのはちょっと。もちろん食い逃げをするつもりはないけど。それにだいいち、こんなに食べきれないよ。」
「ありがと、じゃあもらうね。これが一番好き。」
彼女はブルスケッタを口に放り込んで、嬉しそうに笑う。ブルスケッタをつまむ拍子に彼女の胸元が少しのぞいて、僕は下心全開でそれを盗み見ている。
「もう。」彼女は胸元を隠して「わざとだけどね。」そう言って笑っている。
「それであの人、いっつも人の為にあれしなきゃとかこれしなきゃって言ってるの。なんでそんなに人の為に頑張るのって聞くといっつも、自分が楽をするためだよって。」
「全然自分が楽になっているようには見えなかったんだけどね。」
「でも、私の胸元のぞき込んで、それで少し元気が出るならそれもありかなぁ。ぐらいに思ってたのよ。最初はね。」
胸元を引っ張っている師匠を彼女は指ではじいた。師匠ははじかれて、レッドアイのグラスのふちに着地する。
あれはまだわたしが小さい頃の話だ。
遠くでヒグラシが鳴いていて、私は夕日があたる板間に寝そべって白い蜘蛛をつついて遊んでていた。台所からカレーの香りが漂っている。おばあちゃんが私の為に作ってくれるカレーの匂い。
「それで、なにがあったの。」
おばあちゃんがダイニングテーブルにカレーを置いて私に声をかけた。
「いじめられた?」
わたしは首を横に振る。
「友達出来た?」
わたしは首を横に振る。
「東京に帰りたい?」
わたしは首を横に振る。
「お母さんがいなくてさみしい?」
わたしは首を横に振る。
「お友達になるのが怖い?」
わたしは頷いた。
「みんなと仲良くしたい?」
わたしは頷いた。
「ちょっとおばあちゃんの愚痴、聴いてくれる?」
おばあちゃんはそう言って一口水を飲んで、私の返事を待たずに話し始めた。
「実は私、瑠那って名前で、東京でちょっと変わった仕事していたのよ。あなたの那音って名前、そこから取ったんだけどね。」
「それは、当時はあんまり褒められない仕事だったんだけど。私にとっては誇りみたいな感じだから、瑠那って名前はね、今は大事な名前。」
「最初はね、いろんな人と仲良くして、キラキラした毎日を送りたいなぁって。みんなの輪の真ん中でいつも笑っていられるような。そういう生活がしたかったの。」
「でも、うまくいかなかったのよねぇ、みんなと仲良くしようとして、みんなの、一人一人の100点取ろうとして、疲れちゃったの。」
「それでね、そこから逃げたの。」
「逃げてそこで思ったのよね。がんばりすぎちゃうのは良くないんじゃないかって。でも、がんばりすぎちゃうのはやめられないの。」
「だから思ったの。みんなの100点取るのだけはやめようって。その代わり、誰かの130点取ってやろうって。」
「それでね、一人の人と深くかかわることにしたの。そうしたら、」
「すごく楽になった。」
「だって、誰かの130点さえ目指せば、他の人なんてどうでもいいのよ。本当に楽だった。」
「その時思ったのよねぇ、もっと早く気が付けばよかったって。」
「いきなりゴールなんて無理よ。小さなことから始めないと。」
「那音、あなたの名前ね、すごくちっちゃいって意味なの。でもね、那音の那って、那由多ってものすごく大きい数に、音が響くみたいに大きく広がっていく小さな幸せって願いでおばあちゃんが付けたのよ。」
「まあ、那音って、昔の変わった仕事しているときのお客さんが付けてくれた名前なんだけどね。」
おばあちゃんはもう一口水を飲んだ。
「だから那音、みんなと仲良くしようと思わなくたっていいわよ。仲良くしたい誰かを見つけて、その子と全力で仲良くなってみなさいな。」
「なんかこれが私の名前の由来らしいんだけどね。おばあちゃんあの時何が言いたかったんだろう?」
那音はそう言ってビーフジャーキーをつまむ。師匠は相変わらず那音の胸元を引っ張っている。
「よくわからないけど、それで、那音は友達、できたの?」
「ううん、ずっと蜘蛛と遊んでた。」
「結局仲がいいって子もいなかったし、特に仲が悪いって子もいなかったかなぁ。」
「那音は今、あの人の130点目指してる?」
「どうだろ、わたしのしあわせの中にあの人がいればいいなあとは思っているけど。」
「たぶん蜘蛛が自分のしあわせはかなえてくれないのは、自分のしあわせは自分で勝ち取りに行かなきゃいけないからなんだよ。」
「蜘蛛は70点ぐらいの合格点はくれるけど、130点は自分で取りに行かなきゃいけない。そういう事なんじゃないかな。」
「そろそろ、雨やんだかな。」
僕はウォレットを取り出す。
「お金はいいよ。師匠が出してくれただけだし。」
那音はそう言ってレジの電源を入れようとしない。
「それよりこれだけ教えて、今日の中で一番おいしかったのって、どれ?」
「ギムレット、君が作ってくれたギムレット。」
僕はそう言ってコインを一枚カウンターに置いて店を出た。
雨はすっかり上がって、夜空にオーロラが広がっていた。時計を見ると1:15。
ギムレット
ジン 45ml
ライムジュース 15ml
シェイクしてカクテルグラスに注ぐ
レッドアイ
ビール 1/2
トマト・ジュース 1/2
レモンスライス 1枚
グラスにトマトジュースを注ぎ、ビールでビルドアップ。
軽くステアし、レモンスライスを添える。
曲を聴く:YouTube The Beatles – Back In The U.S.S.R. (2018 Mix / Lyric Video)
