九星占い

九星も学んでみては、とお声がけいただいたことがあります。

九星では春分点と秋分点、冬至と夏至を基準にして1年を24節で区切りながら、バイオリズムが巡っていくという考え方なので、春分点を牡羊座の始まりとして考える星占いと相性が良いのではないか、というお話からのきっかけだったかと思います。

九星ご存じですか?
九星という言葉は聞いたことがなくても、一白水星とか五黄土星という言葉は耳にしたことがあるという方は多いのではないでしょうか?

乱暴に言ってしまうと、
A.1年を24個に分割して春夏秋冬に六節づつ割り当てる。
B.冬至が冬の真ん中として、春の始まりになる 立春(夏至から8分の1年後つまり三節)を起点にして一年の区切りとする。
C.年単位で九星が巡る。
D.2節(ひと月)ごとに月単位の九星が巡る。
E.日単位で九星が巡るが、冬至近くと夏至近くで日単位の九星の巡り方が逆になる。
 ※冬至近くからは一⇒二⇒三⇒四 夏至近くからは九⇒八⇒七⇒六
F.九星は
 一白水星
 二黒土星
 三碧木星
 四緑木星
 五黄土星
 六白金星
 七赤金星
 八白土星
 九紫火星
G.九星盤という数字の魔法陣をベースにしたものを使う(3×3マスに1~9の数字を入れ、縦横斜めの3つの数字の合計が15になる配置)
 魔法陣通りに数字が並ぶ五黄土星の九星盤

五黄土星の九星盤

H.九星といって、水星とか土星が出てくるが、空の星や星占いの星は関係ない。むしろ五行(木・火・土・金・水)の方が関係する。
I.何やら吉方位や凶方位がある
辺りで挫折しました…何やら、とか言い始めてます。

九星と星占いの相性が良いと書きましたが、
星占いとの共通点としては、一年(太陽の周りを地球が一周する期間)を等間隔に区切る辺りでしょうか。

大雑把に計算すると、
太陽(の周りを地球が好転する公転周期)が365.242日
月の公転周期が27.32日ですから、
太陽(地球)が一巡りする間に月は13.36回っている計算になります。
そうすると、9年に一度ほぼ同じ日に、月と太陽の位置関係が同じに・・・・・・なりませんでした・・・・・・

そんなに簡単なものでなかったです・・・

252年に一度程で、月と太陽の位置関係がほぼ同じ感じになります。
この時に九星も同じ九星盤の配置になります。と書くと、いかにも九星と占星術に因果関係が出ているように感じるのですが、種明かしをすると、ある日を基準にして、月と太陽の位置関係が似た感じになるのは
  84年後 168年後 252年後 271年後 336年後
 355年後 420年後 439年後 504年後 辺りです
(公転周期についてはこちら)
その中から、同じ九星盤の配置になる年(公倍数の年)を選んでみたわけです。

とはいえ、公転周期と時代のバイオリズムでは84年 168年 252年サイクルがあるような気がすると書きました。
ここでもやはりなんとなく、90年位、180年位、250年位で時代の波というかうねりのサイクルがあるような気がしてきます。

歴史は繰り返すと言いますが、きっと占いというのは、その繰り返す歴史のうねりというか、波に法則性があるのではないかという直感を説明するために、いろいろと因果関係がありそうなものを探し続けた結果、使えそうな(気がする)理屈をまとめたものなのかもしれません。

般若心経

わたしの宗教は何かと聞かれたら、
仏教徒ですという答えになります。

お正月には初詣に神社に行きますし、
クリスマスは祝いますし、なんだったらハロウィンも楽しみます。
ついでにイースターも楽しそうですし、食事を忘れて、個人的にラマダン的な状況になってしまったりするわりに、日々仏壇に向かって念仏を唱えたりすることは無く、本当に仏教とかと言われると、たまに般若心経を写経するぐらいで、熱心な信者というわけではないのですが、私のバックボーンにある思想というか、考え方は多分、日本の仏教的な、禅宗的なものです。
※おそらくですが、臨済宗の影響を強く受けていると思います。
従って、わたしの占いの内容にも、根っこの部分は、多分日本の仏教的な思想のようなものが流れたものになってしまっているのではないかと思います。
なかでも、般若心経の思想は写経してしまう程度にお気に入りの思想です。

般若心経を写経していると、
わたしが占いをするたびに思うことを思わずにはいられません。
色々と悩みや苦しみってあるけれど、結局それもうつろいゆくものなのだし、あまり意味のないことなのではないかと。
いわゆる無常観というものなのかもしれません。

般若心経では、五蘊つまり(色・受・想・行・識)は皆、空であると説いています。
色:肉体 受:感覚 想:想像 行:心の作用 識:意識
は空であると説いたうえで、いろいろなものを空であると説いていきます。そして、心無罣礙つまり、心に何も妨げるものがなければ、何も恐れるものはないと説いています。
最後に、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶というサンスクリット語のなんだかよく分からない呪文を唱えていれば大丈夫だと言って締めくくります。

ものすごく乱暴に、私なりの解釈をすると、いろいろあるけど、考えすぎないことだ、考えすぎたってあんまり意味なんてないし、元々そんなに世の中意味のあるものではないんだから。考えすぎて苦しくなったら、この呪文でも唱えて、ちょっと頭の中のぐるぐる回ってるものを追い出しなよ。というようなこととして、ありがたく写経して、頭の中を空白にしてみたりしています。

こんなことを書いていたら、ふと、
教の神は乗り越えられない試練はお与えにならない。という、新約聖書のコリント人への手紙の一説を思い出しました。
この言葉、辛い逆境にあっても人はそれを乗り越えられる。かのように解釈されている方も多いと思うのですが、ここでいう試練というのは、誘惑ということで、苦境とか、逆境ということではないのです。
どちらかというと、現状への不平不満、羨望や傲慢といったものによって、誘惑に負けて、善ならざる行動に突き動かされることを戒めた文章であると、わたしは解釈しています。

もちろん、
どうしようもない絶望や悲しみ、苦境や逆境というものは存在します。
どうしようもなくはない絶望や、苦境や逆境は、もっと存在します。
あるいは、歓喜や、絶頂というものも存在します。
そのことによって、思い悩み、萎縮したり、傲慢になったりすることは、一時の事として致し方ないものではあるけれど、ずっと続けるものではないのではないし、ずっと続くものでもないと思うのです。

バーナム効果

わたしが占いをさせていただくとき結論から言えば、バーナム効果は利用します。こう言うと、解っている連中からは、この悪徳占い師等と、お褒めの言葉をいただくのですが…この効果を利用して、わたしが誰かを操ろうとしているなら別ですが、バーナム効果って、それほど悪いものだとは思わないのです。

ウィキペディア(Wikipedia)からの引用
 バーナム効果(バーナムこうか、英: Barnum effect)とは、星座占いなど個人の性格を診断するかのような準備行動が伴うことで、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分、もしくは自分が属する特定の特徴をもつ集団だけに当てはまる性格だと捉えてしまう心理学の現象。

確かに、このような記述を毎日の星読みでもしていますので、ご確認ください。そして質の悪いことに、相反する事柄をそっと差し込んで、どちらに転んでも当たっているという状況を作り出したりもします。

ここで、占いとしての意味がない。当てにいっている。
という論法にしても良いのですが、少し違う。そう思うのです。

多分、誰にでも当てはまることについて、ご本人がどう思うのかそのことが大切で、結果として、背中を押したり、ブレーキを掛けたりすることの手助けになることができれば、それが占いの一番の意味ではないかと思います。

占いそのものによって相手の行動を決定づける必要がある。そんなシーンはとても少ないです。というか正直なところ、そこまで責任は取れないです。
明らかに星座のサインが出ていたり、タロットカードが囁いていたりする。そんな状況にお目にかかることは、ほとんどありません。
そして多くの場合、占いを受ける側が、とりたい行動あるいはとってしまう行動って大方、ご自身の中にすでにあります。
バーナム効果を狙って紡ぎだされた言葉によって、その行動の後押しやブレーキになれば幸いだと思っています。
もちろんそれが、 とりたい行動あるいはとってしまう行動 が明らかに間違っていたり、正しかったりすることもあります。でも、ほとんどの場合、実は最善という答えは無いです。

実際のところ、周囲の状況というのは、そんなに大きく変わりません。
もちろん、大きな決定や、何かの事故、突然の不幸や幸運というターニングポイントのようなものがある。事にはありますが、そうそういつもいつもターニングポイントであることは無いですし、そんな人生や世界であれば、右往左往しすぎていて、疲れてしまいます。
その一方で、いつでもどこでも、ご自身の中では、ターニングポイントにすることができます。
※この文章もバーナム効果的なものですね

そしてこれが、恐ろしいことに、人間万事塞翁が馬という中国の故事にあるように一時良いことであっても、後の不幸のもとになることもあれば、今の不幸が、後の幸運の種になることもあります。

絶望的な状況だからこそ、いつか来る幸福の為にできることを。幸福だからこそ、いつか来る不幸を避けるために備えることを。ついコメントしたくなってしまう。わたしは、そんな性格の人間なのです。