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四弘誓願とベッポの言葉

煩悩無尽誓願断

煩悩は無尽蔵に湧いてくるものではあるけれど、これを絶ち切り生きていくという誓いです。煩悩つまり自分自身だけの快楽に溺れ利己的な生き方をこれを悪しきものとして絶ち切り、利他的に生きていくという誓いだと諭された記憶が、かなたにあります。

煩悩というのは様々な欲の事です。除夜の鐘を百八回つきますよね。あれは煩悩の数だけ鐘をつくんだという事を聞いたことは無いでしょうか。眼・耳・鼻・舌・身・意の六つにそれぞれ過去現在未来の煩悩がそれぞれ六つづつあるとして6×3×6で108の煩悩があるとされています。百八煩悩は別の機会に回すとして、いわゆる感情と言われるもの全般の事だと思えばよいです。

無尽というのは尽きることがないという事です。

誓願というのは誓うという事です。

断というのは断ち切るという事です。

という事で煩悩は決して尽きることがないけれどこれを断ち切るという誓いになります。

子供の頃は全く持ってよく分かりませんでした。煩悩というものがよく分からなかったですし、断ち切る必要があるものつまり、悪しきものという事がよく分からなかったのです。欲しい物は欲しいし、眠いものは眠い、褒められればうれしいし、怒られれば悔しい。これを咎め立てる理由が見当たらなかったのです。

実は今でも、断たなければならないものという感覚はありません。

煩悩や欲というのはモチベーションの源流です。誰かのために何かをしたいというときに、感謝されたいとか、尊敬されたいとかそういった類の事を考えるとそれは煩悩の結果としての行動という事になります。

禅の言葉に『無功徳』という言葉があります。

昔昔のお話です。とある国の王様がおりました。王様はそれはそれは熱心に仏教を信仰し、たくさんの寺院を立て、僧侶に手厚くしました。国民にも仏教を推奨し、その精神に基づいて国を治めたので国民からは仏心天子と呼ばれていました。そんなあるとき、王様の国を達磨大師が訪れます。

王様は達磨大師にこう尋ねます『私は仏教を深く信仰し続けています。即位以来、沢山の寺を建立し、僧を育成してきました。そんな私はどれほどの徳を積んでいるのでしょうか。そしてそんな私にはいくらの功徳が訪れるのでしょうか』と。

それを聞いた達磨大師はこう答えます。『無功徳』と。

達磨大師は日本でよく見かける必勝達磨のモデルになった方です。禅の開祖と言われています。さてこの王様、達磨大師からどのような言葉を聞くことができると期待してこのような話をしたのでしょうか。

おそらく『素晴らしい、王様はこれほどまでに多くの徳を積まれたのですから、人々から尊敬され、国はますます栄え、将来にわたり王様の名声は輝き続ける事でしょう』と称賛されることを期待して、達磨大師にこの問いを投げかけたのではないでしょうか。

しかし達磨大師の返答は『無功徳』功徳なんて何もないよ。というものです。多くの場合これは、王様のしたことが見返りを求めてしたことなので意味がない。という解釈になるかと思います。しかし、本当にそうでしょうか。

王様の行いは、見返りを求めて行ったことなので、本当の意味での善行ではない。という事なのでしょうか。それぐらいならやらなければよかったという事でしょうか。

おそらくそんなことは無いと思います。あれをしたこれをしたとか、あれをしたからとかこれをしたからと言って見返りを期待して行いを行うこと、これについて否定したわけではありません。見返りがないと言っただけです。自分自身で素晴らしいと思える行いをできて、それが喜ばしいと思えたのであれば、それで良くないですか。という事だと思うのです。

それをしたという事が楽しく、喜ばしいことであったのならそれで良いではないか。自分の行いに対して見返りがあるという事を期待するとそれがなかった時にこんな感情が生まれてしまいます。

あれをした『のに』これが返ってこなかった。これをした『のに』それが手に入らなかった。そんな不満が生まれるのです。

そしてこんな考えになります。見返りが期待よりも少なければ不満に感じ、期待通りであれば当然と思い、期待以上であればしめたと思い、期待以上の見返りを常に求めるのです。

人間の行動って大体、生存欲求か承認欲求が源泉になっていると思うのです。欲求なくただ行動するというのは単細胞生物が条件反射で動いているときぐらいでしょうか。その条件反射ですら、そのように反射的に動くことも、その方が良いことがあるという経験の結果です。

何かの結果や、その方が良いことがある。あるいはその方がましである。というものを求めて行動することは決して悪い事ではないと思うのです。しかし見返りによるものではなく、その行動そのものが喜びであったなら、結果によらず喜びに満ち溢れることになります。

聖書の中マタイによる福音書6章-3に『あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない』という一節があります。6章の冒頭を少し引用します。

Take heed that you do your charitable deeds before men,to be seen by them.Otherwise you have no reward from your Father in heaven.

Therefor,when you do a charitable deed,do not sound a trumpet before you as hypocrites do in the synagogues and in the streets,that they may have glory from men.Assuredly,I say to you,they have their reward.

But when you do a charitable deed,do not let your left hand know what your right hand is doing.

That your charitable deed may be in secret;and your Father who sees in secret will Himself reward you openly.

施しを『見られるために』人の前で行わないように注意しなさい。そうしないと天に居ます父から報いを受けることができないでしょう。

だから施しをするときは、偽善者が人に褒められるように会堂や路上で自分の行いをラッパを吹き鳴らして触れ回ってはならない。彼らはその行いの報いを受けてしまってる。

あなたが施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせてはならない。

それはあなたのする施しが隠れているためである。隠れたことを見ていてくださるあなたの父は報いてくださるであろう。

わたしはこのあたり、報いを期待してことさらに自分を飾るために行う善行は、善行を人に見せて称賛されることを期待している時点で目的を達している。その目的のために行う行動が徳を積むという事にはならない。と言っているように見えるのです。

何らかの結果を求めての行動。これを全て断ち切るとなると、死ぬしかないような気がします。ですから死は救いだという事を言っても良いのですが、煩悩が悪いものという事ではないと考えて、満たされないという事に不満を持つという事に問題があるのだと考えると、少し楽になります。

欲が悪いのではなく、欲が満たされないあるいは満たされたときに囚われることに問題があると考えるのです。満たされなかった時に不満を持つ感情や、欲が満たされたときにもっともっとと思う感情についてこれを断つという事を意識するとこの言葉に少し気楽に向かえるようになります。

マタイによる福音書でも本質的には施すこと、善行を積むこと、そのことそのものが喜びであるという事を諭しているように思うのですが、モチベーションを維持するのがとても大変です。だから大丈夫、神は見ているということを述べて、実践を後押ししているのではないでしょうか。

もしかすると達磨大師は王様に、徳を積むことそのものに喜びを感じて欲しくて、称賛され褒められる事を目的化して行動そのものに喜びを感じる事に水を差してしまう事を避け、行為そのものが喜びであるという事に気付いてほしかったのかもしれません。

別のお経ですが、座禅和讃というお経の中に、『たとえば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなり』という言葉があります。水の中に居るのに喉が渇いたと叫んでいるようなものだ。自分が満たされているという事に気がつきなさいというようにも読み解ける一節です。老子の中にも足るを知るという言葉があります。

足りない足りない。まだまだもっと。という感情を捨てる努力をするという誓いだと理解しながら、そのようになってしまう事もまた認めるのが、この言葉を受け入れるコツです。

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