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四弘誓願とベッポの言葉

法門無量誓願学

仏様の教えは果てしないものであるがこれを学び会得するという誓いです。世の中には学ぶべき事柄で満ち溢れていて、向上心を持って学び続けるという誓いだと諭された記憶が、彼方にあります。

法門を仏教の教えという事で使うと少し占いでは使いにくいので、学び全般の事だというように曲解して利用します。学ぶという事には果てしがなく、おおよそこの世のありとあらゆることから学ぶことができます。

常に上を目指して学び続けるという事を推奨するということにしても良いのですが、ここでは前段の煩悩無尽誓願断を持ち出して、向上心もまた煩悩の一つだという事で、上を目指すことより良い学びを手に入れ、人より秀でようとすること『ではない』というアプローチをすると、おおよそこの世のありとあらゆることから学ぶことができる。というワードに絡めやすくなります。

さて、会話の文脈次第では常に学び続ける。向上心を持つという事を推奨して、ダメ押しにここでもう一つ、ガンジーの名言を持ってくるのも一つの手です。

Live as if you were to die tomorrow;Learn as if you were to live forever.

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。

マハトマ・ガンジー(1969.10.02-1948.01.30)

この辺りを引用して、向上心を持って学び続けることで成功への道が開ける。という筋書きにする。というわけです。

しかしこの筋立てだけですと、努力が大事もっと頑張れって言われたみたいな感覚になられると、実力不足とか怠惰だとかいう方向にラベリングされた。というような捉え方をされてしまう恐れがあります。まさにわたしがそうでした。

そこでもう一段、これに加えて向上心もまた煩悩であるので、この言葉の真意はひたむきに上を目指すという事にあるのではない。向上心を持って優れた人物になろうという事ではなく、謙虚な姿勢で学ぶという事だと続けるのがお勧めです。世界は驚きに満ちているし、ありとあらゆることは気づきを与えてくれるきっかけになりえます。世阿弥の言葉にこんな言葉があります。

上手は下手の手本、下手は上手の手本。

世阿弥 風姿花伝

この言葉、下手なものは上手なものを見て学ぶという事は自然に理解できるのですが、上手なものは下手なものから何を学ぶというのでしょうか。下手なものの悪いところを見て、そうならないための工夫をするという事でしょうか。

実は下手なものの悪いところを見てという先の私の言。これこそが世阿弥が戒めたかった心の動きだとわたしは解釈しています。もちろん、ここが良くなればとか、これがなければ、というような気づきを与えてくれるという事はあるかと思います。

しかし世阿弥が伝えたかったことはおそらく、下手なものにも良いところがあれば上手なものはそれを取り入れるべきである。もっとも悪しきことは、下手なものを蔑んで見下すことである。という慢心を戒めた言葉です。

下手なものをどうせ下手なのだという視点で蔑んで見るというこの姿勢こそが、自らの学ぼうとする姿勢を放棄していることにつながり、それがいずれ油断というものを生んでしまうのです。

謙虚な姿勢でいること。自分にはまだまだ学ぶことがあって、自分より優れた点をありとあらゆるものは持ち合わせている。という事に気づくことを『上手は下手の手本、下手は上手の手本』という言葉で、世阿弥は伝えようとしていて、それと同じ事をこの法門無量誓願学という言葉は伝えようとしているのではないかと思うのです。

等とお伝えすると、バーナム効果を狙った占い結果になります。

実力不足を感じていらっしゃる方、自分が足らないと思われている方には、学び続けて向上心を持つことが大切という部分のアドバイスとして残ることが期待できます。

実力はあるし頑張っているのにどうにも上手くいかない(実力や努力に見合った結果を手に入れられていない)と感じられているような方には慢心や、油断といったことがなきようお気を付けくださいという部分のアドバイスとして残ることが期待できるというわけです。

<<煩悩無尽誓願断  仏道無上誓願成>>