四弘誓願にはゴールがない
四弘誓願は四つとも全て、終わったよくやった、これでもうしなくて良いという明確なゴールがありません。
ゴールがないということを考えると、自分はまだそこに至っていない。不足しているといわれているような気がして、渇望し続けなければならないような気がしてしまいます。
自分は未だ至らず。つまりダメな奴だという気分になってしまいます。まさに座禅和讃の例えば水の中に居て、渇を叫ぶが如くなりという気分に陥っていたわけですが、自意識という名の向上心と自尊心の塊だった私は優れたものでありたい。賞賛されたいという我欲の煩悩にまみれてこんな気持ちになってしまったのです。
果てがないのだという事を感じると、途方に暮れることになります。達成すべきゴールが見えなくなって暗澹とした気持ちが襲ってきます。
上へ上へ足らない足らないもっともっと。
四弘誓願がそんなことを言っている言葉だとを感じたら、ベッポの言葉を思い出してほしいのです。もう一度引用します。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」またひとやすみして、かんがえこみ、それから、「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」そしてまたまた長い休みをとってから、「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」
モモ ミュヒャエル・エンデ作 大島かおり訳
岩波書店1976年9月24日発行
1989年12月20日第41版
48ページ、49ページからの引用
法門無上誓願成。仏の道をなすと言っても、一足飛びに52段の悟りを目指してゴールしようとするのではなく、今立っているこの場所の悩みや迷いに向き合っていく。そうしているうちにそれがだんだん楽しくなっていく。これが大事なんだなという事だと思うのです。